中洲大好き【ゲストコラム】

【中洲昭和史】進駐軍・米軍キャンプ・キャバレー・ビッグバンド・音楽文化【中洲の系譜】

昭和20年(1945年)第二次世界大戦の福岡大空襲により中洲は甚大な被災。
しかしながら同年末には、映画館や劇場が次々に復活を遂げていきました。

戦後10年の間に数十もの映画館が軒を連ねると同時に、キャバレー・スナック・高級クラブも増えました。
戦後復興から高度経済成長期の中洲。その歴史においてキャバレー文化は、中洲の重要な昭和史の一つであり、
福岡中洲の風俗文化史・戦後史とも言えるでしょう。
5000人の米軍(進駐軍)が駐留した時代
【中洲】進駐軍・米軍キャンプ・キャバレー・ビッグバンド・音楽文化【中洲の系譜】

1952年発効のサンフランシスコ講和条約により進駐軍は撤収し、在日米軍として駐留。
現在の福岡空港(板付空港)には米空軍のItazuke air Base、西戸崎に米陸軍のCamp Hakata、
雁ノ巣には米空軍のBrady Air Baseの米軍施設があり、1972年ころまで存在しました。
いわゆる戦後期、米軍兵士の娯楽には、日本人ジャズメンの演奏がありました。

戦後復興の中洲経済の歴史の一面において「米軍キャンプ」の恩恵があります。
中でも、米軍キャンプにバンドマンを派遣する業者は、大きな富を築きました。
その財産を元手にキャバレーやダンスホールを開業する業者もあったと言われています。

戦後昭和・中洲風俗史
【中洲昭和史】進駐軍・米軍キャンプ・キャバレー・ビッグバンド・音楽文化【中洲の系譜】2

昭和20年(1945年)福岡大空襲の焼け野原の時代から、米軍キャンプ撤収後に至るまで、
中洲経済の礎を築いた産業の一つがキャバレー、と言っても過言ではないのではないでしょうか。

昭和29年(1954年)マリリン・モンローと夫の(野球選手)ジョー・ディマジオ来福。
昭和30年前後(1960年代)~昭和40年代(1970年代)は、中洲キャバレークラブの全盛時代です。

最盛期には「赤い靴」「月世界」「チャイナタウン」「上海」「金馬車」「白い森」
「リド」「ドミナス」「アラジン」「長島」や、ダンスホール「慕情」やナイトクラブ「88」など
中洲と周辺には20軒前後のキャバレーが存在、正しく『中洲不夜城』そのものだったそうです。

キャバレー文化=音楽文化
【中洲昭和史】進駐軍・米軍キャンプ・キャバレー・ビッグバンド・音楽文化【中洲の系譜】3

当時を知る方々曰く「中洲で働く女性は非常に美しく、選ばれた女性達」という印象だったそうです。

そして、キャバレーを支えたもう一つの大きな存在が、ビッグバンドであり、生演奏です。
大規模キャバレーには10数名のバンドマン、小さな店舗にも小編成のバンドマンがいました。
中洲や周辺には500名ほどのバンドマンが存在したと言われるキャバレー文化が隆盛を極めていました。

また、バンドマンだけではなく、戦後歌謡の歌手たちも米軍キャンプで公演し、
キャバレーのステージで営業を行い、その後の人気の礎を築きあげました。
米軍家族向け住居「Dependent house(デペンデントハウス)」
アメリカ文化に大きな影響を受けた若者たちからも、新たな音楽文化が生まれました。

西戸崎、雁ノ巣に駐留の米軍撤収後の(通称米軍ハウス)Dependent houseに集う、
東区の「米軍ハウスグループ」や「香椎グループ」の「東区ロック」と称された文化。
「博多ロック」「めんたいロック」と称された福岡のロック文化、ロックの歴史です。

※参考:博多ロック編<234>「めんたいロック」の命名|西日本新聞
現在の中洲
戦後復興から高度経済成長期の中洲は、キャバレーを11店舗経営する「キャバレー王」
と呼ばれる方がいらしたほど活気が溢れ、国内有数の歓楽街へと成長を遂げました。
一方、戦後の高度経済成長の終焉や、バブル経済崩壊の影響を受けた時期もありました。

しかしながら今では、4000店とも言われる店舗や屋台で賑わう街に発展しました。
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